#646 橋本 淳

 先日九州北部もついに入梅し、本日関東・甲信・東海地方も梅雨入りとなりました。これから晴天の日はありますが、1カ月半高温多湿の日々が続きます。この時期には体調を崩す人が増えますので、食中毒を含め健康管理に留意する必要があります。この時期を乗り越えれば本格的な夏が到来します。
 さて、橋本淳氏が亡くなられました。彼の名前を知らない人も「ブルー・ライト・ヨコハマ」、「亜麻色の髪の乙女」の作詞家と言えば思い浮かぶ人も多いと思います。1960年代から様々な名曲の歌詞を手がけた超有名な作詞家です。今とは違い、60年代から70年代の初めまではプロの作詞家、作曲家が活躍していた時代です。60年代後半はグループサウンズ(今でいうバンド)が流行し、多くの名曲が生まれましたが、その大半はプロの作詞家・作曲家が手がけています。今のようなシンガー・ソング・ライターが登場したのは70年代になってからです。今日は故橋本淳氏に関する記事を取り上げたいと思います。
----------
『昭和の歌謡界を彩った作詞家、そのルーツは福岡・瀬高に』
 ブルー・ライト・ヨコハマ、亜麻色の髪の乙女、ブルー・シャトウ、真夏の出来事、カナダからの手紙…。昭和を彩った名曲の数々を生んだ作詞家、橋本淳さんが86歳で亡くなった。
 ルーツは福岡県瀬高町(現みやま市)にあった。橋本さんの本名は与田準介。瀬高出身の児童文学者、与田凖一さん(1905~97)の長男である。
 ♪小鳥はとってもうたがすき かあさんよぶのもうたでよぶ-。「小鳥のうた」で知られる凖一さんは若い頃、児童雑誌「赤い鳥」に童謡を投稿し、選者の北原白秋に見いだされて上京した。同郷の青年は白秋のまな弟子となり、準介の名は白秋が付けてくれた。
 凖一さんは児童文学の第一人者として名をはせていき、檀一雄や川端康成、大西巨人ら著名な文学者とも親交を深めた。
 古里で昨年、与田凖一生誕120年の記念行事が開かれた。準介さんはビデオメッセージを寄せた。巨匠と呼ばれる作家たちと交流する父の姿に「自分は小説家になろうとは思わなかったけれど、子ども心にいろいろ吸収してたんだなと後に思った」。父と歌謡曲の話はあまりしなかったが、たまに「あれは良かったな」と声をかけられたそうだ。
 みやま市の与田凖一記念館には、父が書いた小学校の校歌が展示されている。その学校は6年前に統合され、新たな瀬高小の校歌を準介さんが手がけた。今頃は父子で、うた談議を楽しんでいるだろうか。
https://www.nishinippon.co.jp/item/1501061/
----------
 偉大な作詞家のルーツが大牟田市の隣「みやま市」にあることを初めて知りました。そういえば福岡県南部には北原白秋(柳川)古賀政男(大川)など優れた詩人や音楽家がいます。また久留米市からは松田聖子やチェッカーズなど有名な歌手やミュージシャンが多く出ています。この地方には文学や音楽を育む風土があるのでしょうか。そういえば「炭坑節」も有名です。(炭坑節についてはルーツに様々な説があります。)今日のJポップの基礎を作った一人が橋本淳氏だと言えるでしょう。ご冥福を心より祈ります。

2026年06月07日