#582 戦艦大和

 令和7年度が始まり、多くの学校では4月7日が始業式、4月8日が入学式となります。新入生は新しい環境への期待と緊張感に満ちていることでしょう。在校生は新学期に合わせて新しい目標を掲げていることでしょう。海外の学校は秋に新学期が始まるのが普通ですが、日本では春に始まります。かつて明治時代には外国に倣って秋始業式も考慮されたことがありましたが、やはり桜とともに新学期を迎えることが日本の学校にはふさわしいのでしょう。
 さて4月7日は歴史上どんな日だったでしょうか。戦史に興味がある人は戦艦大和が撃沈された日だと語ることでしょう。アニメの題材にもなった戦艦大和ですが、当時世界一の戦艦だった大和も歴史の荒波にもまれた悲劇的な戦艦として今日でも様々な話題を提供してくれます。読売新聞は戦艦大和に関する次のような記事を載せました。
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『時代に遅れた戦艦「大和」、元見習工は沈んだ乗員に思いはせ…45年4月航空機に敗れる』
 戦艦「大和」が撃沈されてから今月で80年となる。日本海軍の象徴となった世界最大の戦艦だったが、急速に発達した航空機の前になすすべもなく敗れた。大和の建造に携わり、乗り組んだ人たちは、戦争の非情さを今も忘れずにいる。
 太平洋戦争が始まる直前の1941年10月下旬、当時17歳だった中倉勇さん(100)(広島市)は、高知県・ 宿毛すくも 沖で試験航海中の大和の船底にいた。当時は軍需工場「呉海軍 工廠(こうしょう) 」(広島県呉市)で働いていた。大和の海軍への引き渡しを控え、性能を確認する「公試運転」に立ち会っていたのだ。
 全長263メートルの船体が時速約50キロの最大速力で海面を押し分けて進む。 舵かじ やスクリューにほど近い船底の後部に陣取り、 操舵そうだ に関わる油圧シリンダーの動きを記録した。 面舵(おもかじ) (右)や取り舵(左)がいっぱいに切られるたびに艦はぐぐっと急旋回し、息詰まる緊張を感じた。ガガガガガと耳をつんざく音が響き、大和の力強さに圧倒された。
 海軍工廠の見習工になったのは38年。通勤の途中、目隠しされた造船用のドック( 船渠(せんきょ) )から鉄板を 鉄鋲てつびょう で接合する音が響いてきた。建造時は「1号艦」と呼ばれた大和がそこで造られていた。その姿を初めて見たときは「横幅がとにかく広い。魚雷が1、2本命中してもびくともしない不沈艦だ」と思った。
 日本海軍は、戦艦同士が砲を撃ち合う艦隊決戦に備え、大型戦艦を建造した。しかし大和が完成するわずか8日前、海軍は自らの手で、航空機が戦艦の優位に立つことを証明する。ハワイ・真珠湾への攻撃で、日本の航空機部隊は停泊中の米戦艦8隻を撃沈・撃破した。
 「最新技術を詰め込んで造った大和はすでに時代遅れの存在になっていた」。中倉さんはそう振り返る。
 その後、新兵教育を担う海兵団に入って終戦を迎え、戦後は、原爆の人体への影響を研究する米国の原爆傷害調査委員会(ABCC)で聞き取り調査にあたった。
 後遺症に苦しむ人の姿を見て、戦争のむごさを痛感した。時代に取り残された戦艦に乗り、戦死した兵士たちの命の重さにも思いをはせる。
 中倉さんは戦争を知らない世代にこう訴える。「今の平和が当たり前と思ってほしくはない。国際情勢を学び、戦争について考えてほしい」

<航空機に太刀打ちできず>
 「とにかく大きく、エレベーターがあることにも驚いた」。1942年、大和の乗組員になった木村功さん(104)(徳島県石井町)はそう話す。冷暖房もあり、寝室にはハンモックではなくベッドが置かれていた。巨大な艦内の移動は「旅行」と言われた。だが、出撃する機会は少なく、停泊して動かない姿は「大和ホテル」と 揶揄 やゆ されることもあった。
 木村さんは、大和に乗艦していた山本五十六・連合艦隊司令長官に何度も電報を届けた。当時、南太平洋ではガダルカナル島を巡る戦いが激化。苦戦を伝える内容が多かったのだろうか。山本長官が顔をしかめる様子が印象に残っている。
 43年3月、巡洋艦「利根」での勤務を命じられて大和を後にする。44年10月には、利根の乗組員として、大和の姉妹艦「武蔵」が米軍機に撃沈されたレイテ沖海戦に参加した。木村さんは「多数の航空機に戦艦は太刀打ちできなかった」と最前線で時代の変化を感じたという。

<最新動向を収集する必要性証明>
 海上自衛官の中澤信一・防衛大准教授は「戦時中、秘密裏に建造された大和の認知度は低かった。戦後に『悲運の戦艦』の存在が明らかになると、判官びいきの日本人気質に共鳴した」と指摘する。
 中澤さんは「建造時は『艦隊決戦』を想定した軍事的合理性が高い最先端の戦艦だったが、完成した時には、航空機を主体とする新しい戦い方に対応できなくなっていた」と語る。軍事技術の急速な発達は現在も起きている。ロシアによるウクライナ侵略では、無人機が戦場の様相を一変させた。
 中澤さんは「技術はめまぐるしく進化する。大和の歴史は、防衛力の整備には最新の動向を幅広く収集する必要があることを示している」と強調する。

◆大和= 1937年11月に起工された満載排水量7万2809トンの戦艦。46センチ主砲(射程42キロ)で、敵戦艦の射程外から一方的に攻撃する運用構想だった。ミッドウェー海戦(42年6月)やレイテ沖海戦(44年10月)などに参加したが、敵艦に砲撃する機会はほとんどなかった。戦争末期、米軍が上陸を始めた沖縄に向かい、米軍機の猛攻を受けて45年4月7日、九州南西沖で沈んだ。乗員3332人のうち3056人が戦死したとされる。この日に撃墜した米軍機は3機だったと記録されている。
https://www.yomiuri.co.jp/sengo/20250405-OYT1T50057/
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 アニメ「宇宙戦艦ヤマト」はガミラス星人との戦いに傷つきながらコスモクリーナーを入手し、地球への帰還を遂げますが、実際の戦艦大和は乗組員の大半を戦死させ、海の藻屑と消えました。大和が最後に出陣した作戦は「菊水作戦」と呼ばれていますが、この作戦は沖縄まで大和を航行させ、沖縄本島の海岸に乗り上げ、不沈戦艦としての役目を果たすことでした。日露戦争時代には東郷平八郎率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を対馬沖で破り、大戦艦主義が成功しましたが、太平洋戦争で同じような戦いを考えた海軍司令部は将来を見る目がなかったと言わざるを得ません。ミッドウェー海戦で敗れた連合艦隊がこの欠点をを如実に示しています。
 上記の記事にありますように、戦艦大和建造時に戦争の歴史は劇的に変化し、時代は戦艦から航空機の時代に移り変わります。日本の敗戦は歴史の流れを読めなかったことが原因です。この悲劇の戦艦大和の例は80年経った現代の日本にも当てはまります。
 日本人は短期的な予測は得意ですが、中期・長期的な予測な苦手です。例えば世界を一世風靡したエレクトロニクスや電気製品は影を潜め、中国や東南アジアの製品に遅れをとっています。日本が生き残る道はただ一つ、ロボット産業のように世界が追随できないような分野において常に傑出したアイデアや物造りに始終し、世界をリードすることです。そのためには優れた人材を育成することです。言いかえれば、各分野において優れた人材を養成することで多くの優れた製品を生み出すことができます。日本は高度成長時代において優れた製品を生み出してきましたが、当時は優れた人材が溢れていました。
 これから日本が世界のリーダーとして復活するには優秀な人材を養成することが必須です。そのためには教育の充実が必要となります。優秀な教員の育成と教育資材が必要になります。政治家は私欲に走るのではなく、国家百年の計として現在の教育制度を見直さなければなりません。この国が復活するためには政治家が襟を正し、率先して政治家としての生き方を改める必要があります。

2025年04月06日