#398 ...の秋

 秋らしい快晴が続いています。秋と言えば「・・・の秋」が思い浮かびます。スポーツの秋、食欲の秋、読書の秋など、その人の好みに応じて様々な秋が存在します。あなたは今年どの秋を過ごしますか。

 秋の夜長と言えば、「読書の秋」がすぐに思い浮かびますが、仕事や勉強で忙しい日々を多くの人は過ごしており、読書の時間をなかなか確保できないようですが、就寝前の少しの時間を利用して読書したいものです。寝る前に難しい本を読むと頭がますます冴えてきますので、寝つきの良くなる内容の本が最適です。特にお勧めは老若男女にかかわらず、昔読んだ童話や少年少女向きの本です。童話というと大人の読み物ではないという人もいますが、子どもだった時の素直な気持ちを思い出すには昔読んだ本が良いと思います。
 私が好きな童話作家は小川未明です。小川未明を知らない人が多いと思いますが、日本の童話の黎明期に活躍した作家です。今では彼の作品は単なる童話というよりもお店が読んで楽しめる「古典文学」の香りがします。今日は彼の作品の中で、最も知られている作品の1つをを紹介します。
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『牛女』
 ある村に、脊の高い、大きな女がありました。あまり大きいので、くびを垂れて歩きました。その女は、おしでありました。性質は、いたってやさしく、涙もろくて、よく、一人の子供をかわいがりました。
 女は、いつも黒いような着物をきていました。ただ子供と二人ぎりでありました。まだ年のいかない子供の手を引いて、道を歩いているのを、村の人はよく見たのであります。そして、大女でやさしいところから、だれがいったものか「牛女」と名づけたのであります。
 村の子供らは、この女が通ると、「牛女」が通ったといって、珍らしいものでも見るように、みんなして、後についていって、いろいろのことをいいはやしましたけれど、女はおしで、耳が聞きこえませんから、黙まって、いつものように下を向いて、のそりのそりと歩いてゆくようすが、いかにもかわいそうであったのであります。
 牛女は、自分の子供をかわいがることは、一通りでありませんでした。自分が不具者だということも、子供が、不具者の子だから、みんなにばかにされるのだろうということも、父親がないから、ほかにだれも子供を育ててくれるものがないということも、よく知っていました。
 それですから、いっそう子供に対たいする不憫がましたとみえて、子供をかわいがったのであります。
 子供は男の子で、母親を慕したいました。そして、母親のゆくところへは、どこへでもついてゆきました。
 牛女は、大女で、力も、またほかの人たちよりは、幾倍もありましたうえに、性質が、やさしくあったから、人々は、牛女に力仕事を頼たのみました。たきぎをしょったり、石を運んだり、また、荷物をかつがしたり、いろいろのことを頼みました。牛女は、よく働きました。そして、その金で二人は、その日、その日を暮らしていました。
 こんなに大きくて、力の強い牛女も、病気になりました。どんなものでも、病気にかからないものはないでありましょう。しかも、牛女の病気は、なかなか重かったのであります。そして働くこともできなくなりました。
 牛女は、自分は死ぬのでないかと思いました。もし、自分が死ぬようなことがあったなら、子供をだれが見てくれようと思いました。そう思うと、たとえ死んでも死にきれない。自分の霊魂は、なにかに化けてきても、きっと子供の行ゆく末を見守ろうと思いました。牛女の大きなやさしい目の中から、大粒の涙が、ぽとりぽとりと流れたのであります。
 しかし、運命には牛女も、しかたがなかったとみえます。病気が重くなって、とうとう牛女は死んでしまいました。
 村の人々は、牛女をかわいそうに思いました。どんなに置いていった子供のことに心を取られたろうと、だれしも深く察して、牛女をあわれまぬものはなかったのであります。
 人々は寄より集まって、牛女の葬式を出して、墓地にうずめてやりました。そして、後に残った子供を、みんながめんどうを見て育だててやることになりました。
 子供は、ここの家から、かしこの家へというふうに移り変わって、だんだん月日とともに大きくなっていったのであります。しかし、うれしいこと、また、悲しいことがあるにつけて、子供は死んだ母親を恋しく思いました。
 村には、春がき、夏がき、秋となり、冬となりました。子供は、だんだん死んだ母親をなつかしく思い、恋しく思うばかりでありました。
 ある冬の日のこと、子供は、村はずれに立って、かなたの国境の山々をながめていますと、大おおきな山の半腹に、母の姿がはっきりと、真白な雪の上に黒く浮き出だして見えたのであります。これを見ると、子供はびっくりしました。けれど、このことを口に出してだれにもいいませんでした。
 子供は、母親が恋しくなると、村はずれに立って、かなたの山を見みました。すると、天気のいい晴れた日には、いつでも母親の黒い姿をありありと見ることができたのです。ちょうど母親は、黙って、じっとこちらを見つめて、我が子の身の上を見守っているように思われたのでありました。
 子供は、口に出して、そのことをいいませんでしたけれど、いつか村人は、ついにこれを見つけました。
「西の山に、牛女が現われた。」と、いいふらしました。そして、みんな外に出て、西の山をながめたのであります。
「きっと、子供のことを思って、あの山に現われたのだろう。」と、みんなは口々にいいました。子供らは、天気のいい晩方には、西の国境の山の方を見て、
「牛女! 牛女!」と、口々にいって、その話でもちきったのです。
 ところが、いつしか春がきて、雪が消えかかると、牛女の姿もだんだんうすくなっていって、まったく雪が消えてしまう春の半ばごろになると、牛女の姿は見られなくなってしまったのです。
 しかし、冬となって、雪が山に積もり里に降るころになると、西の山に、またしても、ありありと牛女の黒い姿が現われました。村の人々や子供らは冬の間、牛女のうわさでもちきりました。そして、牛女の残していった子供は、恋しい母親の姿を、毎日のように村はずれに立ってながめたのであります。
「牛女が、また西の山に現われた。あんなに子供の身の上を心配している。かわいそうなものだ。」と、村人はいって、その子供のめんどうをよく見てやったのす。
 やがて春がきて、暖かになると、牛女の姿は、その雪とともに消えてしまったのでありました。
 こうして、くる年も、くる年も、西の山に牛女の黒い姿は現われました。そのうちに、子供は大きくなったものですから、この村から程近い、町のある商家へ、奉公させられることになったのであります。
 子供は、町にいってからも、西の山を見て恋しい母親の姿をながめました。村の人々は、その子供がいなくなってからも、雪が降って、西の山に牛女の姿が現われると、母親と、子供の情合について、語たり合ったのでありました。
「ああ、牛女の姿があんなにうすくなったもの、暖かになったはずだ。」と、しまいには、季節の移り変わりを、牛女について人々はいうようになったのでした。
 牛女の子供は、ある年の春、西の山に現われた母親の許しも受けずに、かってにその商家から飛び出して、汽車に乗って、故郷を見捨てて、南の方の国へいってしまったのであります。
 村の人も、町の人も、もうだれも、その子供のことについて、その後のことを知ることができませんでした。そのうちに、夏も過ぎ、秋も去って、冬となりました。
 やがて、山にも、村にも、町にも、雪が降って積もりました。ただ不思議なのは、どうしたことか、今年にかぎって、西の山に牛女の姿が見えないことでありました。
 人々は、牛女の姿が見えないのをいぶかしがって、
「子供が、もう町にいなくなったから、牛女は見守る必要なくなったのだろう。」と、語り合いました。
 その冬も、いつしか過ぎて春がきたころであります。町の中には、まだところどころに雪が消えずに残っていました。ある日の夜のことであります。町の中を大きな女が、のそりのそりと歩いていました。それを見みた人々は、びっくりしました。まさしく、それは牛女であったからであります。
 どうして牛女が、どこからきたものかと、みんなは語り合いました。人々はその後もたびたび真夜中に、牛女さびしそうに町の中を歩いている姿を見たのでありました。
「きっと牛女は、子供が故郷から出ていってしまったのを知らないのだろう。それで、この町の中を歩いて、子供を探しているのにちがいない。」と、人々はいいました。
 雪がまったく消えて、町の中にはその跡もなくなりました。木々は、みんな銀色の芽をふいて、夜もすこし明るくくていい季節となりました。
 ある夜、人は牛女が町の暗い路地に立たって、さめざめと泣いているのを見たといいます。しかしその後、だれひとり、また牛女の姿を見たものがありません。牛女はどうしたことか、もはやこの町にはおらなかったのです。
 その年以来、冬になっても、ふたたび山には牛女の黒い姿は見えなかったのであります。
 牛女の子供は、南の方の雪の降らない国へいって、そこでいっしょうけんめいに働きました。そして、かなりの金持となりました。そうすると、自分の生まれた国がなつかしくなったのであります。国へ帰っても、母親もなければ、兄弟もありませんけれど、子供の時分に自分を育ててくれたしんせつな人々がありました。彼は、その人たちや、村のことを思い出しました。その人たちに対して、お礼をいわなければならぬと思いました。
 子供は、たくさんの土産物と、お金とを持って、はるばると故郷に帰ってきたのであります。そして、村の人々に厚くお礼を申しました。村の人たちは、牛女の子供が出世をしたのを喜び、祝いました。
 牛女の子供は、なにか、自分は事業をしなければならぬと考えました。そこで村に広い地面を買って、たくさんのりんごの木を植えました。大きないいりんごの実を結ばして、それを諸国に出そうとしたのであります。
 彼は、多くの人を雇って、木に肥料をやったり、冬になると囲いをして、雪のために折れないように手をかけたりしました。そのうちに木はだんだん大きく伸びて、ある年の春には、広い畑一面に、さながら雪の降ったように、りんごの花が咲きました。太陽は終日、花の上を明るく照らして、みつばちは、朝から日の暮れるまで、花の中をうなりつづけていました。
 初夏のころには、青い、小さな実が鈴なりになりました。そして、その実がだんだん大きくなりかけた時分に、一時に虫がついて、畑全体にりんごの実が落ちてしまいました。
 明くる年も、その明くる年も、同じように、りんごの実は落ちてしまいました。それはなんとなく、子細のあるらしいことでありました。村のもののわかったじいさんは、牛女の子供に向むかって、
「なにかのたたりかもしれない。おまえさんには、心あたりになるようなことはないかな。」と、あるとき、聞きました。牛女の子供は、そのときは、なにもそれについて思い出すことはありませんでした。
 しかし、彼は独りとなって、静かに考えたとき、自分は町から出て、遠方へいった時分にも、母親の霊魂に無断であったことを思いました。また、故郷へ帰ってきてからも、母親のお墓におまいりをしたばかりで、まだ法事も営まなかったことを思い出しました。
 あれほど、母親は、自分をかわいがってくれたのに、そして、死んでからもああして自分の身の上を守ってくれたのに、自分はそれに対たいして、あまり冷淡であったことに、気づきました。きっと、これは母の怒りであろうと思いましたから、子供は、懇んごろに母親の霊魂を弔らって、坊さんを呼び、村の人々を呼び、真心をこめて母親の法事を営んだのでありました。
 明くる年の春、またりんごの花は真白に雪のごとく咲きました。そして、夏には、青々と実りました。毎年このころになると、悪い虫がつくのでありましたから、今年は、どうか満足に実を結ばせたいと思いました。
 すると、その年の夏の日暮ぐれ方のことであります。どこからとなく、たくさんのこうもりが飛んできて、毎晩のようにりんご畑の上を飛びまわって、悪い虫をみんな食べたのであります。その中に、一ぴき大きなこうもりがありました。その大きなこうもりは、ちょうど女王のように、ほかのこうもりを率いているごとく、見えました。月が円るく、東の空から上る晩も、また、黒雲が出て外の真暗な晩も、こうもりは、りんご畑の上を飛びまわりました。その年は、りんごに虫がつかずよく実って、予想したよりも、多くの収穫があったのであります。村の人々は、たがいに語らいました。
「牛女が、こうもりになってきて、子供の身の上を守るんだ。」と、そのやさしい、情の深い、心根を哀れに思ったのであります。
 また、つぎの、つぎの年も、夏になると、一ぴきの大きなこうもりが、多くのこうもりを率いてきて、りんご畑の上を毎晩のように飛びまわりました。そして、りんごには、おかげで悪い虫がつかずによく実りました。
 こうして、それから四、五年の後には、牛女の子供は、この地方での幸福な身の上の百姓となったのであります。
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 初出が1919(大正8)年5月となっていますので、現在では使用されない表現が使われています。それでも親子の厚い情が窺われる名作です。小川未明の作品には他に「ろうそくと人魚」など多くの名作があります。秋の夜長にお好きな児童文学をお勧めします。

2021年09月26日