#476 B5消滅!!!

 3月もすでに下旬となり、桜の花も咲き誇っています。昨夜の雨で桜花がいっそう美しく見えます。当塾近くの延命公園の桜の名所では3年ぶりに夜遅くまで公園の灯が点灯し、夜桜を鑑賞することができます。今年の桜はあと一週間ほど楽しめそうです。
 三月下旬といえば、新学期の準備で新入生は制服や教科書の準備で忙しくなる頃です。私もこの時期にはクリアーファイルを数冊購入して、一年間使用した教材資料を整理していますが、最近とんでもない事実が判明しました。
 いつもは近くのホームセンターでクリアーファイルを購入していますが、最近B5サイズのクリアーファイルが店頭に出ていません。大牟田市内の文房具店を何件か回りましたが、B5サイズがまったくありません。そこで昨日所用で福岡市に出かけ、天神のインキューブに立ち寄りましたが、そこも在庫がありませんでした。そこで店員さんに理由を聞くと、意外な事実が判明し、唖然としました。
 その店員さんの説明では、B5サイズのクリアーファイルは製造メーカーがもう製造していないそうです。その理由は多くの家庭にコンピュータと印刷のためにプリンターが普及しており、印刷用にA4のプリンタ用紙が普及しており、保存するために同サイズのクリアーファイルが普及しているそうです。したがってB5サイズでプリントアウトする家庭が減少しており、それとともにB5サイズのクリアーファイルが店頭から姿を消してしまったそうです。
 個人的には授業でB4サイズのコピー用紙を使用しており、二つ折りにすればB5サイズになりますので、B5のクリアーファイルが最適な大きさになり便利なのですが、これからはA4サイズで保存しなければならなくなります。もちろん「大は小を兼ねる」ということでA4サイズを使用すれば済むことですが、少々大きなサイズとなり価格も高くなります。諸般の理由によりB5サイズが無くなるのは残念でが、これも時代の流れでしょうか。
 ちなみにB5サイズのコピー用紙はもちろん健在です。B4サイズと共にさまざまな場面で使用されています。しかしながらB5用紙にも最近暗雲が出てきています。当塾を含め、ほとんどの学校では保護者に通知を出す際にA4サイズの用紙を使用しています。B5よりも一回り大きく、その分多くの文を使用することができます。国や地方自治体が出す正式な文章はすべてAサイズで統一していますので、いずれ学校でもA4、A3サイズが普及していくことでしょう。ただし、小中学生が持っているノートはB5、A4サイズが多いようです。
 国内ではAサイズ(A判)とBサイズ(B判)が混在していますが、ネットで調べると次のような歴史があることが分かりました。
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『A判の由来』
 もともとはA判の提案者と言われているドイツの科学者、ヴィルヘルム・オストヴァルトが1911年に提案した「1cm×√2cm(1:√2)を基本としこれを倍々にしていく紙の寸法」がA判の始まりです。
この寸法は長辺を二等分にしても1:√2の比率が変わらないという特徴を持っており、書籍の製本等に使われていましたが、やがて新たなる規格に取って代わられることになります。
 A判の提案者と言われているオストヴァルトにはウォルター・ポルストマンという助手がいました。彼は1912~1914までオストヴァルトの助手として働き、1915からは戦争に徴兵されたり、博士号を取得したりと紆余曲折あった後、1920年にドイツ工業標準化委員会(現在のドイツ規格協会)の従業員になります。
 そして1922年、ポルストマンはオストヴァルトの提案した寸法を基に「DIN476」という規格を作成。これは紙を対象とした841mm×1189mm(A0)を基本とするA判規格のことで、この規格は時を経て今日でも世界中で使われる国際規格となります。
 時は巡って1947年、スイスで「ISO(国際標準化機構)」が設立されます。これは、国際的な取引を円滑にするために「モノやサービスの基準を世界中で同じレベルにしよう」と設立された機構で、身近なところではネジやクレジットカードのサイズ等がISO規格として国際的に統一化されています。そんなISOでは1975年に紙に関する規格を規定しました。その名も「ISO216」。こうしてオストヴァルトの提案した寸法は今や私たちが日常で目にするA判として国際規格となったのです!
『B判の由来』
 B判の始まりは美濃紙(美濃和紙)にあると言われています。
美濃紙とは、美濃国(現在の岐阜県南部)で作られていた紙の総称で、美濃国は最も古くからの和紙の名産地とされており大宝時代の「正倉院文書」の戸籍謄本は、現存する中で最古の和紙とされています。しかし、この時代の紙の大きさは作り手により様々で決まった規格があるわけではありませんでした……。
 大宝時代から約9世紀後の江戸時代。この時代になると、徐々に美濃紙の大きさが統一されていきます。この頃、美濃紙はその質の良さから幕府御用達の和紙として広まり、町人層の需要拡大も相まって大量生産されるようになっており、特に町人層には障子紙として使われることが多く、この障子紙の規格が273mm×395mmの「美濃判」として広がったのです。
 明治維新により江戸時代が終わり、外国との交流がより盛んになった明治時代には日本でも洋紙が使われ始め、日本の印刷様式に合った用紙として、美濃半紙の約8倍の大きさの「大八つ判」という紙が出回るようになります。これはイギリスから輸入した「クラウン判」が基になった用紙で、そのサイズは1091mm×788mm
現在使われいるB1サイズ(1030mm×728mm)にかなり近いサイズとなっており、このあたりから世界標準のB判にかなり近づき始めます。(途中省略)
 日本国業規格統一調査会が設置されてから25年後の昭和21年(1946年)第二次世界大戦が終戦した翌年であるこの年に、現在も日本の規格を管理している日本工業標準調査会(JISC)が経済産業省に設置されます。
この調査会は現在でも使われいる日本工業規格(JIS)を制定しており終戦間もないこの時期は、日本技術の
古い標準化制度を一新する転機となり、その一環として1951年には紙の規格が制定されました。その名も、「JIS P 0138 紙加工仕上寸法」。というわけで、大宝時代からおよそ13世紀の時を経て、ようやく現在日本で使われているB判が誕生したのです!
https://www.sokupuri.jp/archives/3573
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 たかが用紙の大きさの違いですが、A判よりもB判が古い歴史を持っているのが興味深いです。どちらの判も用途に応じていつまでも混在してもらいたいものです。

2023年03月26日