#473 砂の上の足跡(あしあと)

ある晩、男が夢をみていた。
夢の中で彼は、神と並んで浜辺を歩いているのだった。
そして空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。
どの場面でも、砂の上にはふたりの足跡が残されていた。
ひとつは彼自身のもの、もうひとつは神のものだった。
人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、彼はふりかえり、砂の上の足跡を眺めた。

すると彼の人生の道程には、ひとりの足跡しか残っていない場所が、いくつもあるのだった。しかもそれは、彼の人生の中でも、特につらく、悲しいときに起きているのだった。
すっかり悩んでしまった彼は、神にそのことをたずねてみた。

「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私とともに歩いてくださるとおっしゃられた。しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつもひとりの足跡しか残っていないではありませんか。私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあなたは私を見捨てられたのですか」

神は答えられた。
「わが子よ。 私の大切な子供よ。 私はあなたを愛している。 私はあなたを見捨てはしない。あなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残されていないのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ」(作者不詳)
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 上記の文は「砂の上の足跡」として有名な詩歌です。実は3月1日に行われた明光学園高等学校の卒業式で諸田校長先生が式辞のなかで引用されたものです。久しぶりにこの詩文を聞きました。キリスト教徒の間ではとても有名な詩文だからです。特に感動的な場面は文中に登場する男が「最も困難な時になぜ側にいてくれなかったのか」と神様に詰問したときに、神様は「私があなたを背負って歩いてあげたでないか」と答える場面です。
 人は誰でも自分一人で生きていると思っています。そして苦しい時や悲しい時に、なぜ自分だけが悲惨な状況に置かれているか原因を考えもせずに、自分以外の周囲の人を恨んだり、罵倒したりしがちです。しかし苦しい時に悲しい時に誰かが見つめています。そして隣に寄り添ってくれています。たとえそれが自分の愛する周囲の人々でなくても、誰かが(あるいは何かが)そっと見つめてくれています。宗教的にはそれを「神」とか「仏」とか呼んでいますが、万人の心の中に神は住んでいるという人もいます。
 平安末期の歌人で有名な西行は伊勢の神宮にお参りして、
 「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
 (どなたさまがいらっしゃるのかよくはわかりませんが、おそれ多くてありがたくて、ただただ涙があふれ出て止まりません)と詠んでいます。
 宗教心あるいは信仰心は神・仏・大自然と向かい合い、素直に心を向けることで生じます。そこには感謝の気持ちしか存在しません。人間の欲心に満ちた祈りは悪霊や魔神に通じるものです。様々な宗教問題がマスコミを騒がせていますか、本当の宗教とは何かを考えさせられる昨今です。

2023年03月05日