#221 平和の象徴になった親友

 前回のブログで株式会社クマヒラ発行の「抜粋のつづり その七十八」をご紹介しましたが、今日はその中のもう一つ記事をご紹介させて頂きます。ブログタイトルにあります「平和の象徴になった親友」とは広島の原爆により、原爆症で亡くなった佐々木貞子さんのことです。佐々木さんの話は今日まで多くの書物で扱われており、教科書に掲載されるなど、日本人では知らない人がいないほど知られている方ですが、今日掲載する記事は彼女の友人から見た佐々木さんについてのもう一つの話です。
--------------------
  平和の象徴になった親友
           川野 登美子  (「抜粋のつづり その七十八」より抜粋)」
 広島市の広島平和記念公園にある「原爆の子の像」。1958年に建立されてから60年、ドーム型の台座に折り鶴を掲げる少女が立っている。モデルになった女性は佐々木貞子さん。2歳で被爆し、12歳のとき原爆症で亡くなった私の親友だ。
     小学校のクラスメート
 クラスメートになったのは50年、市立幟町小学校2年の時だった。6年生まで同じクラス。当時は、背の低い順に並ぶことが多く、私の前が貞ちゃんだったこともあって仲良くなった。おとなしい子だったが、体育の授業になると輝いた。特にかけっこは男子を入れても一番。私も走るのには自信があったが、一度も勝てなかった。
 卒業間近の55年1月。ずっと皆勤賞の貞ちゃんが突然休み入院した。先生ははっきり言わないが原爆が原因であることは分かった。クラスメート62人のうち、私も含め3分の1が被爆者。新聞は盛んに原爆症を取り上げ、発症したら死ぬと子供心に刻まれていた。
 クラスメートは交代で毎日お見舞いに行った。みんな貞ちゃんは原爆症で、いずれ死んでしまうだろうと感じていた。つらかった。貞ちゃんはいつも帰り際に病院の階段下まで見送ってくれたが、さみしそうな顔で一歩も動かない。玄関までの長いロビーが、貞ちゃんと私たちを隔てる壁のように思えた。涙をこらえ「振り返ったらいけんよ」と声を掛け合い、出口まで必死で走った。
     恐怖と戦い鶴折る
 いつしか貞ちゃんは鶴を折るようになった。千羽鶴が病を大空へ運んでくれると看護師さんから聞いたようだ。すごく集中して折っていた。折り紙がないから、薬が入っていた小さなセロハンを使って、細かい部分は針や爪ようじを手にしながら器用に折った。
 中学に上がると、貞ちゃんは学校生活について聞きたがった。あまり楽しい話をするわけずにもいかず、会話は減っていく。みんなで黙々と鶴を折って帰った。次第にお見舞いがつらくなり、8月末から行くことができなくなった。貞ちゃんが白血病で亡くなったという知らせを受けたのは、その2か月後だ。
 涙があふれるとともに「自分だったら」と恐怖に襲われた。見舞いを途中でやめた自分たちのことを責めた。後から知ったが、貞ちゃんは自分が原爆症とだと知っていた。病室の引き出しから白血球の数を記した紙が出てきた。恐怖と戦いながら泣き言も言わず、鶴を折っていた姿を思うと胸が張り裂けそうになった。
     銅像建立へ寄付募る
 私たち元6年竹組のメンバーは貞ちゃんのために何かしたいと銅像の建立を計画する。ガリ版で2000枚のビラを作り広島市で開かれた全日本中学校長会で配り、寄付を呼びかけた。これがきっかけで、市内の小中高の児童会と生徒会が集まり『広島平和をきずく児童・生徒の会』が発足。最終的に全国から540万円が寄せられた。
 元竹組のメンバーは中学時代のほとんどをこの活動に費やした。しかし、組織が大きくなるにつれ、貞ちゃんを慰霊するという本来の思いが置き去りにされていくように感じた。像のデザインや設置場所など何も教えてもらえなかった。像が建ったあと、私たちは口をつぐんだ。貞ちゃんと自分たちがわかっていればいいと思ったからだ。
 92年、企業経営者になっていた私は広島県中小企業家同友会から、講演依頼を受ける。貞ちゃんのことを話してほしいという。母に相談すると、原爆で多くの犠牲者が出た旧制広島一中にある追悼碑の前に連れて行かれた。そこには兄の名前も刻まれている。母は「お兄ちゃんのためにも貞ちゃんのことを話さないけんよ」と言った。
 兄は「僕は残念だ、残念だ」と言い残して亡くなったという。被爆時に3歳だったわたしには、原爆の被害は語れない。語れるのは幼くして亡くなった親友のことだ。彼女を通して今の子どもたちに、平和の尊さを伝えるのが私の役目だと気づいた。以来、私は語り部となった。
 今も原爆の子の像の前をよく通る。像は本当に貞ちゃんにそっくりだ。世界各国の人がその下に集い、多くの千羽鶴さささげられている。親友は「かわいそうな貞ちゃん」ではなく「世界平和の象徴」になった。通り過ぎながら言う。「貞ちゃん、私も頑張るね」
     (かわの とみこ=語り部・日本経済新聞文化面 30年8月3日)
-----------------------
 佐々木貞子さんの友人、川野が語る言葉に71年前の原爆投下から原爆症を発病し亡くなる貞子さんの様子が鮮やかに描かれています。また原爆の子の像の建立の際に大人の都合による様々な政治的駆け引きがあったことを読み取ることもできます。
 広島・長崎への原爆投下から今年で71年を迎えますが、核廃絶にはまだまだ長い道のりがあります。また近頃アメリカの中距離核戦力全廃条約の破棄に関するニュースが世界中を駆け巡りました。最悪の場合、再び核大国による核兵器の増強が始まるかもしれません。人類はいつになれば相互不信による愚かな軍拡競争を止め、平和な世の中を作ることができるのでしょうか。

2019年02月17日