#379 運命と因果応報(2)

 九州北部では早くも入梅しました。平年より3週間ほど早い梅雨入りとなります。例年ですと5月のこの時期には快晴で湿度も低く一年で一番過ごしやすい時期が続きますが、今年は天候も異常です。
 さて、前回の続きになります。かなり長いですが大切な内容ですので一読してください。

----------
運命と因果応報(2)(陰隲(しつ)録より)
 袁了凡はもともとの名前を袁学海といい、代々医術を家業とする家に生まれました。父を早くに亡くしたため、母の手で育てられ、彼の母は息子に医者を継がせようと医学を学ばせていたところ、ある日頬髯(ほおひげ)の立派な老人が訪ねてきて、こう言いました。
 「私は雲南で理法(易)をきわめた者です。袁学海という少年に理法を教えるようにという天命が下ったのでやってきました。お母さんはこの子を医者にしようとお考えかもしれませんが、彼は科挙の試験に通り、立派な役人になります。県で受ける一次試験には何番で通ります。二次試験、三次試験にも何番で受かります。そして科挙の本試験に臨む前に役人になり、若くして地方長官に任じられます。結婚はしますが、子供さんはできません。そして五十三歳で亡くなる運命です。」
 学海少年は実際に医者の学問をやめ、役人の道へ進みます。すると、恐ろしいぐらいに老人が言ったとおりになっていく。何番で試験に受かるというのもそのとおりなら、地方長官になるのもそのとおりでした。すべてが老人が予言したとおりだったのです。
 その後、南京の国立大学に遊学することになった袁了凡は、雲谷禅師という素晴らしい老師がいる禅寺を訪ね、相対して三日間座禅を組みました。
 「お若いのに、一点の曇りも邪念もない素晴らしい禅を組まれる。これほど素晴らしい座禅を組む若い人を見たことがない。一体どこで修行をなされたのかな。」
 雲谷禅師が感心して言いました。これに対して、袁了凡は子供のころに出会った老人のことを話しました。
 「私の今日までの人生はその老人の言葉と一分の狂いもありませんでした。すべて老人がいったとおりです。子供もできませんし、おそらく五十三歳で死ぬのでしょう。だから、思い悩むことは何もないのです。」
 その話を聞いた雲谷禅師は一喝しました。
 「悟りを開いた素晴らしい男かと思ったら、そんな大馬鹿者だったのか。」
 そして、「老人があなたの運命を言ったというが、運命は変えられないものではない」といって、善きことをすればよい結果が生まれ、悪いことをすれば悪い結果が生まれるという「因果応報の法則」を説きました。
 「善きことを思いなさい。さすれば必ず、あなたの人生も好転していきます。」
 そういわれた袁了凡は、「自分は間違っていた。老師にいわれたように、今後は善きことをしていこう」と誓い、善きことをすればプラス一点、悪いことをすればマイナス一点というように、点数をつけ、日々善きことを重ねるよう努めました。その後、袁了凡は七十三歳まで生きながらえました。
 また、できないといわれた子供にも恵まれました。袁了凡はその子に向かってこう語ったのです。
 「雲谷禅師に出会うまでの人生は、運命のとおりだった。しかし、そのあとの考え方を変え、善きことに努めたところ、おまえが生まれ、本当ならば五十三歳で死んでいなければならないのに、七十を過ぎたいまでも元気だ。なあ、息子よ。人生とは善きことを重ねることで変えられるものなのだよ。」
 「運命」というものは決まっています。われわれが望んで動かせるものではありません。一方、「運命」と同時並行で流れる「因果応報の法則」は、そうではありません。この法則を使えば、決まっているはずの「運命」すらも変えられるのです。このことを「立命」といいます。そうであれば、われわれは「運命」を変えることができる、この「因果応報の法則」をもっと有効に使うべきだと私は考えています。
 ところが、現代社会においては、「運命」や「因果応報の法則」が縒(よ)り合って人生ができていくという単純なことさえも信じられていません。なぜか。一つには「運命」や「因果応報の法則」に対する偏見が影響しています。人智を超えた運命は科学で説明できない。したがって、多少なりとも学問を学んだ知性的な人-インテリ-は「運命」を迷信のようなものと考えてしまいがちです。また、「因果応報の法則」は「悪いことをすればバチが当たるぞ」という表現が示すように、土俗的に使われてきたため、子供だましのように受け止められ、学問のない人が子供を戒める方便のように思われている面があります。
 また、それ以上に「運命」や「因果応報の法則」の正否を証明することがそもそも難しいということも大きく影響しているのでしょう。運命がどうなっているのか、われわれには知りようがないし、善きことをすればよい結果が出るということもなかなか明確な形では表われてはきません。
 それは先にも述べましたように、「運命」と「因果応報の法則」が縒り合うようにして人生が形づくられているからです。
 たとえば、運命的にたいへん悪い時期に少しぐらいよいことをしても、それくらいでは事態は好転しませんし、逆に運命的に非常によい時期に若干悪いことをしても、打ち消されて一向に悪くならないこともあるのです。だから、「あんなに悪いことをしている人が、どうして幸せな人生を送るのだろう」というようなこともあるわけです。
 さらに、こんなこともあるそうです。ある人が霊能力者に友人の運勢をみてもらったところ、こんなことをいわれたそうです。
 「この人は今年たいへん悪い運命にあり、おそらく大病などを患っているはずだが、それが平穏無事だとすれば、近年素晴らしくよいことをされたに違いない。これほど運命的に悪い時期に、体調も仕事も順調であるはずはない。」
 このように、「運命」と「因果応報の法則」はDNAの二重らせんのように複雑にねじれ合い、縒り合うようにしてできているために、「1+1=2」というような整合性がなく、誰も人生がこの「運命」と「因果応報の法則」の二つの要素からできていること、そして「因果応報の法則」のほうが「運命」に勝り、人生を変えることができるということを信じようとはしないのです...
(次回に続きます)
----------

 「因果応報」と言えば何かしらおどろおどろしい響きがありますが、次のように考えられるでしょう。日々勉強する子どもは学力が身につき、将来希望する職業に就くことが可能になります。逆に日々遊んでばかりいる子どもは学力が身につかず、入試や就職に失敗する可能性が高くなります。最近では「因果応報」という言葉よりも「原因と結果」という表現が使われています。表現が異なっても内容は同じです。
 次回もこの話題が続きます。稲森氏は「運命」と「因果応報の法則」についてどのように考えているのでしょうか。

2021年05月16日