#420 オリンピックで示された文化的相違
2月も下旬となりましたが、連日最高気温が10度未満の1月のような寒気が続いています。今年の冬は例年にないほどの寒さでした。しかし、それでも梅の花や水仙が満開で、春の息吹を感じさせてくれます。
さて、北京オリンピックは今日で閉会式を迎えますが、これほどオリンピックに対して様々な異論が出たオリンピックはないでしょう。まずスキー場を設営するために元々自然保護地区であった会場を意図的に変更し、雪の少ない北京に人工雪でスキー場を設営したのは自然破壊の愚挙でありました。またウィグル人問題やチベット問題などをうやむやにしてオリンピックを開催させたことは、平和の象徴としての五輪の終焉を如実に表しています。
前回のブログでもお伝えしましたが、スキージャンプでの失格疑惑において、日本と欧米の対応の差は文化的違いを物語っています。文化的相違の卑近な例として挙げられるのが日米の母親の態度です。一例として、母子がクマに襲われそうになった時に日本人の母親は子どもを守るために、子どもに覆いかぶさりクマには背中を見せますが、アメリカの母親は自分の背後に子供を置き、クマに立ち向かおうとします。
このようにある出来事に対して振る舞う行為が文化的相違として今回のスキージャンプでも見られました。日本チームの関係者は高梨選手の失格に対してIOCには強く抗議せずに、意見書を提出したと聞いています。逆に失格となった国々の関係者は今回の異常な検査に対して一斉に抗議の声をあげています。この場合日本人であれば日本人関係者が取った行動は「潔し」と受け取るのではないでしょうか。
しかし、国際的な立場で考慮すると、今回の抗議しない日本の立場は「不正を認めた」という印象を国際社会に与えています。日本人の潔い態度は必ずしも国際社会で認められるとは限らないのです。それよりも、失格となった選手の国のオリンピック委員会と手を組んでIOCに強く抗議する態度が国際的に正しい見方とされます。
このように色々な場面で文化的な相違が出ますが、国際社会で事を起こすときには、文化的な相違を超えた一致協力が必要になります。日本から遠いウクライナですが、日本の協力の仕方で、今後東アジアに同様な紛争事態が生じた時に各国の対応が決まります。日本が立つ位置により国際社会での日本の役割が問われます。そのような非情に重要な時期に日本が置かれていることを自覚しなければなりません。